「憂う」から「繕う」(2023年の振り返り)
連日娘と寝落ちして、深夜に起床し、洗い物をしてただいま12月31日午前5時。あと20時間もしない間に、2024年である。
2023年は「憂う」という言葉で象徴される一年だった。
身近なところでいえば、家族、自分自身、友人や恩師の怪我・病気であったり、仕事でいえば、法人で借入したり、取りたかった案件を諦めたり、世界的に見れば、ロシアとウクライナ、イスラエルとパレスチナの終わりの見えない戦争、度重なる風水害や地震被害、それを引き起こす気候変動問題の深刻化であったりと、直接的にも間接的にも、心を痛めることが多かった。楽しいこと、嬉しいことも本当に多かったのだけれど、一年を総括した時に、憂うという印象を持ってしまうのは、残念でありながらも、今の日本を象徴しているように思う。年末にかけて明るみになった自民党の政治資金問題がいい例だ。見事なまでに、自分の政治不信を加速させた。
こういったことも重なって「本当に娘の将来は大丈夫なのだろうか」と何度も案じた一年でもあった。彼女は何事も起きなければ、きっと80年〜100年近くは生きる。この手の話は、<100年「後」はどんな未来?>という問いを考えがちだけれど、<どんな100年「間」を生きる?>という問いの方が、親としては気になる。今よりも複雑で難しく、大変な時代を生きていくのだから、その過程の方が心配だからだ。
一体、どうしたらいいのだろう。どこから手をつけるといいのだろう。
そんなことを考え続ける中、12月にたまたま『コモンの「自治」論』を手に取った。
実は3年前に修論を書いているときに、踏み込もうか迷い結果的に取り扱えなかったのが、コモンと自治という概念だった。
コモンとは、共有財・公共財のことであり、本の表紙にもあるが「資本の論理から抜け出す、みんなの共有財」のこと。
自治とは、平たく言えば、自分たちのことを、自分たちで責任を持って、自分たちで決めて取り組むこと。
一見共通項がありそうな2つの概念を、編者の一人である斉藤幸平氏は、
・<コモン>の共有管理を目指す場で、私たちは「自治」の力を磨いていくしかない。
・「自治」は<コモン>の再生に関与していく民主的なプロジェクト
と述べ、相互に関連し合いながら再生し、高めていくもの・実践的なものとして位置付けているのが印象的だった(それを念頭に、各章の執筆者それぞれの実践や考えが、そのリアリティを高めてくれた。特にまちづくりをしている立場からすると、杉並区長で公共政策研究者の研究者の岸本聡子氏のミュニシパリズムのレビュー、文化人類学者の松村圭一郎氏の地域の個店・店から始める自治の話題は、とても良かった。)
自分自身の仕事やフィールドに引き寄せれば、自分にとってNPOやまちづくりの世界の入口だった菊川市上倉沢の棚田の保全や、今なお関わり続ける掛川市のとうもんの里も、コモンの共同管理を通じた自治の実践であった。2022年から取り組むみんなのチャレンジ基地ICLaも、誰もが無料で自由に使える空間であり、当事者同士で管理し合うコモンであり、大学生を中心とした自治の実践である。そう考えると、地域におけるNPO(非営利組織)はコモンと自治の力を再生する装置であり、実践フィールドだ。
本書でも述べられている「希望なき時代の希望」が、実は自分の目の前にあり、憂うことが多い中でも、日々の積み重ねの先に希望があるというのは、救われた気持ちにもなった。だから、不思議と読み込んでしまったのかもしれない。
2023年は憂う一年だったが、憂うことがあるからこそ、それを補ったり、重ね合わせて修繕したり、強くしたりもできる。すなわち、「繕う(つくろう)」のである。この言葉は、破れた生地を縫い合わせる、装うという意味があるが、決してマイナスな意味だけではなく、あるものを活かし、誰かにとって、素敵な贈り物になる可能性を秘めた創造的な言葉でもある。
そして、繕うことは一人ではできない。上倉沢も、とうもんも、ICLaも、プロセスを開き、多くの人が関わり合いながらつくり続けてきたし、今もその最中にある。偶然にも、繕うは「つくろう」と呼びかける言葉でもあった。呼びかけと応答があって生まれる場でありプロジェクトだ。
2024年も憂うことはきっと多々ある。
しかし、だからこそ、呼びかけながら「繕う」。そういった一年にしていきたい。
※12月30日は毎年恒例になりつつある近所に住む友人とのおでん会。今年はおでん担当。
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