希望を掘りあてる考古学

この前の金曜も、大学生に出会う。

悩み、不安、後悔、焦り、そして時には諦めのような話を聴く日々が続く。

そしてその話を聴いていると、誰かに言われた言葉が、まるでトゲのように、彼らの心、思考を留めているように思えてならない。いや、「誰か」というのも、きっと彼らが直接出会ったことのない、実体のない「誰か」の言葉のように思う。TVやニュースを見ない世代と言われていても、メディアやSNSを通じて浴びる言葉が、彼らに刺さっているようだ。


思えば、少し前まで、「アドバイス」と称して、僕自身もたくさんの言葉をトゲのように刺してしまっていたのかもしれない。そこには、相談する/されるという間に生まれる上下関係の中で、「解決策」を示していたのだと思う。「わかりました」と言われて、彼らはまた歩いていくのだが、正直「これでいいのか」と思うばかりだった。


そんなとき、「ナラティブ・アプローチ」という概念に出会い、国重浩一さんの著書の中で、ジュラルド・モンク氏の「希望を掘りあてる考古学」の話に、心を撃ち抜かれてしまった。

 細心の注意と正確さで考古学者は、製菓用のブラシほどに小さな器具で地表をていねいに払い除けていく。このような注意深い動作を通して、一片の遺物をさらけ出していき、その行為を続けることによって、次の遺物もやがて現れてくる。バラバラの断片は識別され、探索が続くにつれて断片は互いに組み合わさっていくのである。断片にしか見えないものに対する細心の観察により、考古学者はその断片を組み立てていく。断片として残っていた人生における出来事の詳細が構築され、本来の意味が単に地形の起伏としか見えなかったものから生まれてくる。


 ナラティブ・アプローチの実践家には考古学者のもつあらゆる観察力、ねばり強さ、注意力、慎重さと繊細さが必要とされる。わずかな情報の断片から、特定の文化に根差した物語が始まるのである。


 考古学者と違って、ナラティブの実践家は目まぐるしく動き、ダイナミックで生命力にあふれた息づく文化のなかで仕事をしていく。そのカウンセリングの場には個人やカップル、あるいはグループとして人々が訪れる。


 カウンセリングにおけるナラティブの方法論とは、人生における問題によって覆い隠されてしまった才能や可能性を一緒に探求する旅に、クライアントを招待することである。考古学者の道具によって発掘されるだけではしかない受け身の土壌としてではなく、クライアントは何か実態のある、価値のあるものを再構築するための協力者としてはたらくのだ。ナラティブの実践家は気長で思慮深いねばり強さを頼りに、クライアントが人生における意義深い体験の断片を拾い集める手伝いをする。時として、これらの貴重な体験は、クライアントを人生の途上で立ち往生させてしまうような問題を回避する道を開いてくれるであろう。またある時は、それは人生を再構築する苦しみの途上での、小休止の合図となるかもしれない。


ジュラルド・モンク,1997=2008『ナラティブ・アプローチの理論から実践まで−希望を掘りあてる考古学』北大路書房


決してナラティブは万能な手法ではない(はず)が、現代の人と人の相互作用の場において、大きな意味を与えてくれていると思う。





天野研究室|静岡大学サステナビリティセンター

市民参加、協創型まちづくり、地域プラットフォーム、地域活動と自己形成について実践・研究している研究室です。地域で様々な人に出会い、共に活動して、何かが起きる場を考えたり、観察しながら、これからの地域社会のあり方を考えています。NPO法人ESUNE、公益財団法人ふじのくに未来財団、大正大学地域構想研究所でも活動中。